この記事は、浅野内匠頭/あさのたくみのかみ(=浅野長矩/あさのながのり)と彼の辞世の句についての謎を解消するための完全ガイドです。
浅野内匠頭は、切腹前に
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん(風を誘って散る桜の花よりも もっと急いで散ろうとしている私は 今年の春の心残りをいったいどうしたらいいのだろうか)」
という辞世の句を詠んだとされます。
実はこの句は、浅野内匠頭が詠んだ本物の辞世の句ではないとする説もあります。彼が吉良上野介(きらこうずけのすけ)をあれほどまでに憎んだ理由をはじめ、赤穂事件は謎だらけです。
興味深いトピックが盛りだくさんなので、多くの新しい発見があるかもしれませんよ。
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浅野内匠頭(浅野長矩)の人生とは?
浅野内匠頭の簡単なプロフィール
浅野内匠頭・あさのたくみのかみ(浅野長矩・あさのながのり)(寛文7(1667)年8月11日~元禄14(1701)年3月14日)は、江戸時代に実在した播磨赤穂(あこう)藩の三代目藩主で、「赤穂事件」の発端となった人物です。
※この記事での月・日は旧暦表記とします。
ちなみに赤穂藩の場所は現在の兵庫県で、内匠頭(たくみのかみ)は官位名になります。
「赤穂事件」は、元禄14(1701)年3月14日、浅野内匠頭が江戸城の松の廊下で、吉良上野介・きらこうずけのすけ(吉良 義央・きらよしひさ)に対して刃傷(にんじょう)におよび、その結果として切腹を命じられたことに始まりました。
※この記事では基本的に浅野内匠頭を長矩、吉良上野介を吉良と呼んでいます。
その後、義憤に駆られた浅野家の家来たち(赤穂浪士47名)は、元禄15(1702)年12月14日 、吉良を倒すために討ち入りを行い、長矩同様、彼らも切腹を命じられるも、その忠義によって後世に名を馳せました。
浅野内匠頭自身は、この討ち入りが行われる前(刃傷事件の当日)に切腹により命を絶っていますが、その死の直前に「辞世の句(じせいのく)」と呼ばれる短歌を詠んでいます。
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
史実としての「赤穂事件」には賛否がありますが、物語「忠臣蔵」として、多くの文学作品や映画、ドラマで取り上げられ、日本の武士道精神や忠誠心を象徴する出来事とされています。
浅野内匠頭は武将でありながらも、その波乱万丈な生涯とドラマティックな死によって後世に多くの文化的影響を与えた人物といえるでしょう。
彼の辞世の句は本物かどうかという議論は後述します。
後に「忠臣蔵」と称される「赤穂事件」とは?
順風満帆かにも見える浅野内匠頭の人生
長矩の父は播磨国赤穂藩2代藩主・浅野長之、母は内藤忠政の娘、波知(はち)ですが、両親ともに彼が幼少の頃に他界しています。
そのため、長矩はわずか7歳(数えで9歳)で、赤穂浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となっています。
三次(みよし)藩主・浅野長治の娘・阿久里(あぐり)姫との縁組が整ったのも、長矩が7歳のときで、彼女は、その前年の延宝2(1674)年に生まれているのだから、現在の基準で考えれば、いろいろと驚きますね。※阿久里の生年については異説あり
天和3(1683)年には、朝鮮から日本へ派遣された外交使節団の「饗応役(きょうおうやく)」と呼ばれる接待役の1人に選ばれ、霊元天皇の勅使への饗応役を立派に勤め上げましたが、このときの指南役が、あの吉良上野介でした。
ここで2人は初めて繋がりますが、このとき2人が揉めたか否かは定かではありません。
ちなみに吉良は1641年生まれなので42歳、長矩は16歳でした。16歳で接待役だったわけですね!
長矩は、元禄3(1691)年12月23日に、消防の指揮を執る「火消し大名」にも任命されています。
元禄8(1696)年12月29日には疱瘡をわずらって一時危篤状態になるも、翌年の5月頃には完治復活!医療技術の発達していない江戸時代に危篤状態からの復活は非常に珍しいことだったと考えられます。
元禄11(1698)年10月9日に発生した犠牲者3,000名以上にのぼる江戸の勅額火事(ちょくがくかじ)の際、吉良上野介は鍛冶橋邸を全焼させたのですが、このときの消防の指揮を執っていたのが長矩でした。
運命のいたずら?2度目の勅使饗応役(御馳走人)で再び吉良と組む
ここまで、早くから実力を認められ、幸運の星の下に生まれてきたかに見える浅野内匠頭ですが、元禄14(1701)年2月4日に、2度目の勅使饗応役(御馳走人)を命じられます。
ここで再び吉良上野介との接点ができてしまいます。
ただし、このとき吉良は京都にいて、任命から25日間は長矩が一人で接待の準備をしていたそうです。そのため、さまざまな手違いがあり、長矩が吉良に不満を溜め込んでしまったという説もあります。
それでも長矩は、元禄14(1701)年3月13日までは、通常通り任務をこなしていたと伝わっています。
運命急展開!松の廊下の刃傷事件へ
3月14日は「勅答の儀」という、江戸幕府の年中行事の中で最も格式高いとされている日でした。
長矩は記録によると「この間の遺恨覚えたるか」と叫びながら、吉良に切りつけたそうですが、致命傷を与えることができず、結局取り押さえられてしまいました。
被害者である吉良が「浅野内匠頭は、乱心したのではないか」と言ったことが記録に残っており、これがもし本当に「乱心」ならば、蟄居(ちっきょ/出歩かないこと)などの軽微な罪で終わったはずでした。
「乱心」とは、今でいう「心神耗弱のため、責任能力なし」のようなものでしょう。
だとすると、吉良には長矩に恨まれる心当たりがまったくないということになりますね。
しかしながら時の将軍・徳川綱吉は「朝廷と将軍家との大事な儀式を台無しにされた」ことに激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家5万石の取り潰しを即決しました。
もちろん「慎重な取り調べを」という声もあがりましたが、聞き入れられることはありませんでした。(浅野内匠頭・享年35歳)
赤穂事件を演劇化した多数の作品群『忠臣蔵』で採用されているのは、みなさんよくご存知の「吉良上野介は賄賂を要求する大悪党で、浅野内匠頭が賄賂の要求を拒否したために、さまざまなパワハラや嫌がらせを受けた」とする説です。
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大石内蔵助以下47名の赤穂浪士、吉良邸討ち入り
この話はここで終わらず、悲しくも美しい結末を迎えます。
史実では「赤穂事件」と呼びますが、文学作品としては「忠臣蔵」の方が馴染み深いですよね。
浅野内匠頭には切腹や5万米取り潰しの厳しい処分があった一方で、(その根本原因を作ったとされる?)吉良上野介には厳しいお咎めがありませんでした。
それどころか、吉良は将軍から
「手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」(引用:Wikipedia・赤穂事件)
という見舞いの言葉をかけられたそうです。
元禄15(1702)年12月11日、吉良は「隠居願い」を提出し、即座に受理されました。そして養嗣子(養子/実際は孫)の吉良義周(よしちか)17歳が家督を相続することになりました。
吉良上野介は当時60歳を超えていました。今でこそ多くの人が現役で働いていますが、当時としてはかなりの高齢者であったと思われます。
こうした処遇の差に対し疑問を持ち、義憤に駆られた大石内蔵助らは、総勢47名からなる「吉良邸討入り」を計画し、元禄15(1702)年12月14日に決行。
討ち入りは成功。吉良上野介・享年62歳。四十七士は、吉良の首を泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に供えました。
寺坂信行という足軽のみが、途中で姿を消していますが、怖くなって自ら逃げた、大石が足軽の身分のためにあえて逃したなど様々な説があるようです。
寺坂以外の四十六名は、吉良邸の討ち入りを幕府に報告し、2ヶ月半後に幕府の指示に従って全員切腹しました。
当時、仇討は場合によっては合法でしたが、仇討ちと認められるのは「父母兄弟を中心とした肉親のため」という理由がほとんどで、今回のような「主君のため」というケースは初めてでした。そこで2ヶ月半の話し合いとなったのですが、結局、認められませんでした。
赤穂浪士たちが切腹したのは、元禄16(1703)年2月4日のことでした。
家督を継いだ吉良義周(よしちか)は、赤穂浪士らに応戦したことにより重症を負ったうえ、浪士たちが切腹したのと同じ日(2月4日)に、討入り当日の「仕形不届」(士道不覚悟※武士の名誉を傷つける行為)の罪に問われ、家名断絶・領地没収を言い渡されました。
もともと病弱だった義周は、信州諏訪家の高島城南丸の屋敷に幽閉され、宝永3(1706)年1月20日に病死します。享年21歳。
義周の死により、三河西条吉良家は断絶しました。
浅野内匠頭の辞世の句「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
浅野内匠頭の辞世の句の意味と心情
辞世の句(じせいのく)とは、人が死に際して詠む短歌や俳句のことを指します。
辞世の句は、その人の人生観や思い、願いを表現するものとされています。
特に、武士が切腹する前に詠むことも多く、武士道における精神を垣間見ることができます。
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん(風を誘って散る桜の花よりも もっと急いで散ろうとしている私は 今年の春の心残りをいったいどうしたらいいのだろうか)」
「いかにとかせん」に込められた意味
「いかにとやせん」という表現は、古典文学や短歌(たんか)などでよく使われる言い回しです。この表現は、「どうしたらよいのか、どうするべきか」といった疑問や不安を示しています。
また、ここでの「名残」とは、彼が死後にどのように記憶されるのか、または彼の行いがどのような影響を与えるのかという意味にもとれます。
この句において、浅野内匠頭は自らの命が終わることによって、何が残るのか、そしてそれがどう評価されるのかという問題に対して、疑問と不安を抱いていることが伺えます。
この「いかにとやせん」という表現が、その複雑な心情を非常に繊細に表しています。
浅野内匠頭の辞世の句は本物なのか?
浅野内匠頭の辞世の句を文字にして後世に伝えたのは、赤穂事件おいて取り調べや副検視官を務めた多門重共(おかどしげとも)でした。
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」の辞世の句も、多門の記録にしか残されていないため、本物かどうか疑わしいという説もあります。
本物ではないと疑われている理由
- 宝永2(1705)年8月以降に発表された大坂の浮世作家・都乃錦の創作、播磨椙原(※ はりますぎはら 忠臣蔵の原型といわれている)にある「風さそふ 花よりもまた われはなほ 春の名残を いかにとかせむ」に酷似
- 切腹の日は、前日の雨と強風で桜はすでに散ってしまった後だった可能性が高い
- 刃傷沙汰の描写に関しても「畳に夥しいほどの血が」というような大げさな記述が見られる
- 多門重共には虚言癖があったという説もある
- 書き間違いが多い
- 多門とは別の後世の人物が、赤穂側に極端に肩入れして書いた可能性があり、浪士らの美化が多くみられる
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赤穂浪士たちの辞世の句
赤穂浪士の多くは辞世の句を遺したとされています。
- 大石内蔵助(おおいしくらのすけ):「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮き世の月に かかる雲なし」
- 大石主税(おおいしちから):「あふときは 語りつくすと思へども 別れとなれば残る言の葉
- 大高源吾(おおたかげんご):「梅てのむ 茶屋もあるべし 死出の山」
これらの辞世の句も、赤穂浪士がどのような心情で討ち入りに臨んだのか、またその後どういった覚悟で切腹したのかを感じさせます。
それぞれの浪士が持っていた忠誠心や覚悟、そしてその行動の意義について、多くのことを考えさせられる詩となっています。
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の辞世の句
「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる浮き世の月に かかる雲なし(なんと楽しいことか、思いを果たして死んでいくというのは。月に雲がかかっていないかのような気持ちだ)」
この句は、泉岳寺で主君の墓前で討ち入りの報告をした後に詠まれたとされています。
大石内蔵助が自らの行いに後悔がなく、死を迎える覚悟ができていることを表しています。特に「浮世の月にかかる雲なし」という部分は、彼の心の晴れやかさと、一世一代の大仕事を果たした後の達成感を象徴しています。
この辞世の句も、浅野内匠頭の辞世の句と同様に、多くの人々に読まれ、その忠義と勇気、哲学が評価されています。
ただし、この句も大石の自作かどうかは疑わしいという説があります。
実際は、切腹を2日後に控えた2月2日、理解者だった儒学者の細井広沢(こうたく)宛ての書簡に書いた「覚悟したほどにはぬれぬ時雨かな」の方が辞世の句だともいわれています。
また「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」だという説もあります。
大石主税(おおいしちから)辞世の句
「あふときは 語りつくすと思へども 別れとなれば残る言の葉(会っているときは語り尽くしたと思っていたけれど、別れとなれば、言い残した言葉がたくさんあったなあ)」
大石主税は大石内蔵助の長男で、討ち入り当時弱冠16歳で最年少の浪士でした。吉良邸討ち入りの際は、裏門攻め入りの隊長をつとめました。
子どもがいなかった長矩からも、自分の子ども同然に可愛がられていたそうです。
大高源吾(おおたかげんご)子葉の辞世の句
「梅てのむ(梅で呑む) 茶屋もあるべし 死出の山(冥途の山には、梅を肴に酒が呑める茶屋もあるだろう)」
大高源吾は、室井其角(たからいきかく)に俳諧を学び、「子葉」と号した俳人でもありました。
子葉は無類の酒好きだったそうで、死を前にしてもなお、豪快で味のある作品ですね。
赤穂浪士が切腹したのは梅の季節の旧暦2月4日でした。
辞世の句の意味とその解釈
浅野内匠頭らの辞世の句は、多くの人々に感動を与えていますが、その意味をしっかりと理解することで、さらにその価値が高まります。
一般的に、辞世の句は生涯の総括や、その人が何を大切にしていたのかを表現しています。
浅野内匠頭の場合、武士としての誠実さや忠誠心が詠み込まれています。このように、辞世の句を読む際は、その背景や人物像を思い浮かべながら解釈すると、より深い理解が得られます。
赤穂浪士の討ち入りは就職活動?
人々の心をとらえて離さない感動的な「忠臣蔵」のストーリーですが、赤穂浪士の仇討ちは、就職活動だったという説もあるようです。
「参考:忠臣蔵の美談は、ほとんど大ウソだった!赤穂義士、仇討ちは「就活」が目的?」
美談が大ウソだと考えられる理由
- 長矩は吉良に対して「どんな恨み」があったのか不明
- 赤穂浪士47人と長矩が『忠臣蔵』で描かれるような深い絆で結ばれていたことを示す証拠がない
- 討ち入りの後、長矩の墓のある泉岳寺までの9キロもの道のりを堂々とパレード(パフォーマンス)
- 仇討ちが成功すれば人々から絶大な賞賛を受け、身分が武士であれば「再仕官」の口が引く手あまたになる(引用元:東洋経済)
赤穂浪士たちは、江戸幕府に仇討ちだと認められることに失敗し切腹したという説です。
浅野内匠頭の辞世の句は本物なのか?いろいろな角度から検証して楽しもう!
今回は、浅野内匠頭の生涯と彼が残したとされる辞世の句を中心に解説しました。
浅野内匠頭や赤穂浪士たちが詠んだ辞世の句を味わえば、彼らの武士としての誇りと、未練や後悔のない覚悟、そして、それぞれの絆や熱い思いが伝わります。
たとえ数百年経とうと「忠臣蔵」の世界にみんなが引き込まれてしまう理由がわかりますね。
ただし「創作」が史実の中にふんだんに組み込まれていることも否定できません。