1980年代に一世を風靡(ふうび)した男性アイドルグループ「チェッカーズ」。
その華々しい活躍とは裏腹に、解散から30年以上たった今もメンバー間の確執が囁(ささや)かれ、多くの人々が「チェッカーズ 確執」というキーワードで検索をかけています。
しかし、その真相は一体何なのでしょうか?
確執は解消されたのか、それともいまだに続いているのか?そして、確執が解散に関係しているのか、確執が影響した活動は存在するのか?
この記事を読むことで、上記のような疑問に対する答えや結論が明らかになります。
また、この記事は「チェッカーズ 確執」で検索するユーザーの疑問に寄り添い、できるだけ信頼性のある情報をもとに解説を行います。
例えば、高杢禎彦の暴露本の内容や、藤井フミヤが29年ぶりにチェッカーズの曲を歌った背景など、多角的に事実を探ります。
この情報を使うことで得られるメリットは、単なる噂や憶測に流されることなく、確かな情報に基づいてチェッカーズの確執について理解することができる点です。
それにより、チェッカーズの音楽や活動に対する新たな視点や理解が深まるでしょう。
さあ、この記事を通して、チェッカーズの確執の真相に迫り、その全貌を明らかにしましょう。
元チェッカーズメンバーの現在・最新情報(2023年8月現在)とプロフィール
各情報はWikipediaや公式サイト、週刊誌・雑誌の記事などから幅広く取得しています。
藤井フミヤ(ふじいふみや)1962.7.11~の現在
福岡県久留米市出身。チェッカーズでは主にリードボーカル担当。チェッカーズ解散後の1993年に、活動名を本名の藤井郁弥(ふみや)から藤井フミヤに改める。
1990年6月29日、長年交際していた一般人女性と結婚。一男一女をもうける。
元国鉄職員。実弟はチェッカーズでサックスを担当していた藤井尚之。長男はフジテレビアナウンサーの藤井弘輝。
- 弟、尚之とのユニット「F-BLOOD(エフブラッド)」で活動。
- 2023年9月23日から2024年5月まで「40th Anniversary Tour 2023〜2024」を開催。(参照元:藤井フミヤ・オフィシャルサイト)
武内享(たけうちとおる)1962.7.21~の現在
福岡県田川市出身。チェッカーズではリーダーを務め、主にギター担当していた。アマチュア時代は楽器のセールスマンだった。
- 2003年にはチェッカーズの楽器担当者、藤井尚之、大土井裕二、徳永善也と「アブラーズ」を結成し、2004年に徳永が舌がんのため他界したのちも、活動は続いている。
- 2023年、アブラーズの結成40周年記念として、デビュー日である9月21日にアニバーサリーライブ「Roots Of Groove 40th」をLINE CUBE SHIBUYAで開催。(参照元:LINE CUBE SHIBUYA公式サイト)
高杢禎彦(たかもくよしひこ)1962.9.9~の現在
福岡県久留米市出身。チェッカーズでは主に低音のサイドボーカル担当。通称は「モク」。一男二女の父。
藤井兄弟とは実家が200mしか離れていない幼馴染みで、フミヤとは保育園時代からの友人。
中学時代は不良グループの番長格で音楽とは無縁だった。仲間の喧嘩が原因で久留米警察署に呼び出され事情聴取を受けたこともある。
2003年6月に自身のがん闘病とチェッカーズ時代のエピソードを記した書籍「チェッカーズ」を発売し、この本の内容が「藤井フミヤとの確執の原因」になったとされている。
- 2019年「いのちスケッチ」という映画に主人公の父親役として出演
- 2002年夏に罹患したがん(同年11月手術。食道の下部半分、リンパ節62本、胃・胆のう・脾臓の全摘出)を克服した体験を伝える講演活動をしている。
- 埼玉県内にある某社の求人情報に作業着を着た高杢本人と思われる男性の写真が掲載され、代表者欄に《事業顧問:高杢 禎彦》と書かれていた(参照元:週刊女性PRIME・2021.4.21)
- 2021年5月9日・16日、ラジオ「Changeの瞬間~がんサバイバーストーリー」にゲスト出演。
- 地元住人によると、埼玉県にある妻の実家の旅館を「共同経営者」として手伝っている。お客さんの送迎などもしていて、現在は一般人として生活している。(参照元:週刊女性PRIME2023年5月23日)
大土井裕二(おおどい ゆうじ)1962.11.2~の現在
福岡県田川市出身。チェッカーズでは主にベースを担当。
所属していたアマチュアバンド「シークレッツ」が解散し、次のバンドを結成するまでの「つなぎ」としてチェッカーズに加入。そのままデビューする。
- 2021年6月アパレルブランド「YUJI ODOI」を立ち上げる。コンセプトは、「大土井が愛用したい大人のデイリーアイテム」(参照元:Wikipedia)
- 2023年4月19日、体調不良により緊急入院。『大土井でキャンプでショー!』という全国ツアーも一部中止。同年5月3日に退院。(大土井の公式サイトで発表)
- 公式サイトには、現在2023年10月末までのスケジュールが発表されており、精力的に活動している。
- アブラーズでも活動中。
鶴久正治(つるくまさはる)1964.3.31~の現在
福岡県久留米市出身。チェッカーズでは主に高音のサイドボーカル担当。曲によってはキーボードも担当。
お酒もたばこもしない理由は「ファルセットを出すために喉を守ることと、酒が元来ダメだったこと」である。
フミヤと高杢が激しく対立している間は、チェッカーズの中で、唯一高杢側に付いていたとされる。
- 2022年4月発売にアイドルグループ、STU48に提供した「花は誰のもの?(作詞は秋元康)」が、オリコンチャート月間5位を記録。44万枚を超えるロングヒットとなる。
- 2023年4月28日、ソロ名義でリリースした作品と高橋リナとのデュエット企画で発表した全81曲をサブスク配信開始(参照元:CDJournal)
徳永善也(とくなが よしや)1964.6.7~2004.8.17
福岡県久留米市出身。チェッカーズではドラムス担当。愛称はクロベエ(小学生の頃、よく黒いジャンパーを着用していたため)。
高校時代からドラムで、ずば抜けた才能を発揮し、チェッカーズには「うちのバンドに入らなければ山に埋める」と半ば脅されて加入。(冗談?)
チェッカーズ解散後、ロックバンド『Little Bach』を結成するも、1998年2月に解散。一時は、大型トラックの運転手もしていた。
2003年、チェッカーズの楽器担当のメンバーと「アブラーズ」を結成するが、まもなく舌がんを発症。
2004年7月23日、アブラーズのイベント「あぶらまつり」が最後のステージとなり、同年8月17日、舌がんにより40歳の若さで他界。
クロベエは死の1カ月前、七夕の短冊に「みんなが仲良く」と綴っていたが、その願いは叶っていない。
藤井尚之(ふじいなおゆき)1964.12.27~の現在
福岡県久留米市出身。藤井フミヤの実弟。チェッカーズでは主にサックスを担当。
チェッカーズ加入のきっかけは、尚之があまりにも暇だったため、兄弟の母親がチェッカーズに入れるようにフミヤに頼んだとのこと。
チェッカーズがアイドル扱いされることに反発し、無精ひげをたくわえていたこともある。
兄弟の仲は非常に良い。
解散後は、ソロや兄弟ユニット「F-BLOOD(エフブラッド)」、チェッカーズ時代の楽器担当者たちのバンド「アブラーズ」の活動をしている。
2005年1月に一般人女性と入籍。2010年に女の子が誕生している。
- F-BLOOD(エフブラッド)やアブラーズの活動こなしている(「朝だ!生です旅サラダ」が2022年7月23日で1500回目の放送を記念して、番組テーマ曲「君を探しに」のMVを公開)
- 2023年7月6日にテレビ東京系で音楽バラエティ「有吉ミュージックフェス」に兄とともに出演。3人で「白い雲のように」を熱唱。(参照元:音楽ナタリー)
チェッカーズ全体の現在
チェッカーズとは?その輝かしい歴史と衝撃の解散
チェッカーズ略歴
チェッカーズは1980年代に大人気だった7人組のロックバンドです。1983年にデビューし、多くのヒット曲を生み出しましたが、1992年に解散しました。
1983.9.21 | 「ギザギザハートの子守唄」でデビュー。発売当時はランキング圏外。 |
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1984.1.24 | 2ndシングル「涙のリクエスト」をリリース。67.2万枚の大ヒット。「ギザギザハートの子守唄」も遅れて大ヒットとなる。 |
1985.4.27 | 初主演映画『CHECKERS IN TAN TAN たぬき』配給収入11億円以上の大ヒット。 |
1986.10.15 | 12枚目のシングル「NANA」をリリース。初のメンバーオリジナル作品。性的な歌詞のためにNHKでは一時放映禁止に。以降のシングル、アルバム収録曲はすべてメンバーのオリジナル作品となる。 |
1987 | 尚之を皮切りにメンバーのソロ活動が増える。郁弥は「Mother’s Touch」がソロシングルとして発売されるも、音楽番組へのソロ出演は断る。 |
1990 | 6月郁弥が学生時代からの恋人と結婚、12月高杢が元レースクィーンとおめでた婚。1991.2人に第一子誕生。1992年の解散までに武内と鶴久も結婚。 |
1991.12 | 郁弥より解散の希望が伝えられる。賛成は武内、大土井、尚之、反対は高杢。鶴久と徳永は保留。プロダクション社長が1992年末の紅白歌合戦を最後に解散することを決定。※高杢の本や複数の報道には、鶴久と徳永も反対だと記載。 |
1992.12.28 | 日本武道館で解散コンサート。武道館の窓を開け、会場に入れなかった8,000人との大合唱になる。 |
1992.12.31 | 解散(→2000年代に入っても、鶴久、徳永、高杢は同じ事務所に残る) |
2002.11 | 高杢がガンの手術 |
2003.6 | 高杢が著書「チェッカーズ」刊行。チェッカーズ(とくにフミヤ)の暴露本ともいわれている。 |
2004.8.17 | 徳永(クロベエ)が他界(享年40歳)。告別式は8.28。フミヤが高杢に「元気か?」と声をかける。 |
2004.9.14 | 「クロベエを送る会」。武内、フミヤ、尚之、大土井裕二は発起人、高杢と鶴久は不本意ながら一般参列者に。 |
チェッカーズの確執(不仲)は、1991年もしくは1986年から
確執(不仲)の噂とその背景
1992年12月末のチェッカーズの解散前から、藤井フミヤと高杢禎彦の間には確執があったようです。
さらに2003年6月に高杢が、「チェッカーズ」というタイトルのいわゆる「暴露本」を出版しました。この出版こそが、確執が表面化した直接の原因だとされています。
チェッカーズの確執は、ほぼ、フミヤと高杢間の問題だと考えられますが、当然、どちらにも言い分があり、ファンもフミヤ派と高杢派に分かれているようです。
チェッカーズの確執には多角的な視点が必要です。高杢の言い分とフミヤの言い分、それぞれに重要なポイントがありますので、一方の言い分だけで判断しないようにしましょう。
チェッカーズ解散の理由は確執が原因か?
チェッカーズが解散した当時、音楽性の違い」が解散の理由とされていました。
解散理由についてリーダー武内は先述の「ミュージックステーション」及び1992年12月8日放送のフジテレビ「FNS歌謡祭」で「チェッカーズとして活動すると同時に、メンバーそれぞれの個性を伸ばしていこうというバンドだったので、道が変わってきた」とコメントしている。(wikipediaより)
公式には「音楽性の違い」となっていますが、もちろんその背後には、他の要因も考えられます。
解散はフミヤの希望であり、高杢は解散に強固に反対しているため、少なくともこの時点では、フミヤのことをそこまで嫌っていなかったと思われます。
チェッカーズの解散理由①メンバーのソロ活動が増えたため
ソロ活動が増えれば、グループ活動の不自由さに気づくことになるでしょう。グループは、自分が乗り気でない仕事も引き受けなければならないことがあります。
チェッカーズの解散理由②自分で曲を作る人と作らない人の格差
チェッカーズのシングルは、1983年9月に発売された「ギザギザハートの子守歌」から、1992年11月の「Present for You」まで31曲ありますが、11曲目の「Song for U.S.A.」までは、すべて作曲・編曲が芹澤廣明(せりざわひろあき)氏でした。
作詞は康珍化(かんちんふぁ)氏が2曲、売野雅勇(うりのまさお)氏が9曲です。
12曲目のNANA(1986年10月発売)からは、Cute Beat Club Band(CBCB)名義で発売したものを除いて、作詞、作曲、編曲もすべてメンバーのオリジナル作品となります。
作詞 | 作曲 | |
---|---|---|
藤井 郁弥 | 24曲 | 0曲 |
藤井 尚之 | 0曲 | 9曲 |
鶴久 政治 | 0曲 | 9曲(CBCBで+1曲) |
大土井 裕二 | 0曲 | 3曲 |
武内 享 | 0曲 | 2曲 |
高杢 禎彦 | 0曲 | 0曲 |
徳永 善也 | 0曲 | 0曲 |
やはり、作詞や作曲の才能があれば、ソロ活動のメリットが多く、解散後の不安も少ないと考えられます。
チェッカーズの解散理由③メンバーの相次ぐ結婚
男性アイドルグループ(女性もですが)の宿命として、メンバーの結婚で異性のファンが減るのは仕方がないことですよね。
チェッカーズの場合は、1991年12月の解散までに、7人のメンバーのうち4人が結婚しました。
ソロになって、同性にも好かれる大人のミュージシャンを目指したくなるのも当然ですね。
メンバー間の確執:その理由と影響とは?
高杢の暴露本・自伝的エッセイ「チェッカーズ」(新潮社)の内容
前半の内容は闘病生活についてですが、後半はチェッカーズ時代のフミヤへの批判に終始しています。
- フミヤは前年に結婚した奥さんと海外旅行に行くために、一方的にチェッカーズの活動を休止
- フミヤは解散ミーティングをクラブで酒を飲みながらやろうと提案
- フミヤは解散前の全国ツアーに、自己管理が足りずガラガラ声で出演
- リーダーの武内はフミヤの言いなり
- 尚之と鶴久の実力は高く評価
- 自分のがん闘病中に見舞いに来たのは鶴久のみだった。これで暴露本を書く決意をする
- チェッカーズがオリジナルの楽曲ばかりになったのはお金(印税)のため
- フミヤは作曲家の芹澤廣明を裏切った。「金のためなら恩も売る」
高杢の暴露本の影響
クロベエ(徳永善也)の死後、「クロベエを送る会」にまつわるトラブルにより、高杢の本で明かされた内情が一般に広く知られることになり、メンバーを二分する確執がさらに注目されました。
高杢の暴露本の影響で「徳永善也を送る会」の発起人に入れなかった高杢と鶴久
クロベエさんの告別式は2004年の8月28日でした。
フミヤの方が高杢に「元気か?」と声をかけたそうで、高杢は「いろいろあったけど、やっぱりわかってくれてるんだ」と嬉しく思ったそうです。
ところが、9月13日に予定されていた「送る会」の前々日、高杢と鶴久の所属事務所が以下のような発信をしたそうです。
1枚には「当日、11時30分から行われる記者会見において高杢、鶴久の両名は元チェッカーズのメンバーとして、徳永善也さんを6人で送りたいという希望を持っておりましたが、残念ながらその望みはかなえられませんでした」と綴られており、もう1枚は、フミヤをはじめとした「送る会」発起人が高杢の事務所あてに送った通信文で、そこには「さて、記者会見なんですが、これに関しては送る会を立ち上げた発起人5人で行います。これまでの経緯上、そうする事が僕らの責任でもあり、義務だと思いますので、その旨ご了承ください」とあり、つまりは2人への「出席辞退」申し入れともとれる内容だったとのこと。(引用元:いまトピ編集部)
「送る会」当日は、最前列にフミヤほか4人の発起人が並び、高杢と鶴久の2人は1列空けた一般席の3列目に座ることになりました。
自分が暴露本を書いたとはいえ、告別式でフミヤから声をかけられて喜んでいるところに、発起人拒否のFAXが流れてきたら、高杢は当然ショックだったと考えられます。
送る会の後、さらに複雑化する確執
「女性自身」などの報道によると、送る会の後別々に応じた記者会見で、フミヤは「本自体はデタラメな本だから読まない方がいいよ、ってみんなに言われたので、僕は読んでいないし、ここにいるメンバーも読んでいないと思う。溝にならないと言ったら嘘になる」と語ったそうです。
高杢はこの発言に怒り、名誉毀損と営業妨害で訴訟まで考えたそうです。
高杢と鶴久は連日ワイドショーに出演し、他のメンバーへの怒りをぶちまけていました。
また、週刊誌の記者に「フミヤには女がいるから調べた方がいい」と吹聴し、それを聞いたフミヤがさらに激怒するといった悪循環が生まれていたそうです。
最期まで「みんなが仲良くなること」を願っていたクロベエさんの死は、既存の確執をさらに複雑化させる要因となってしまいました。
幼馴染との関係は、長い時間をともに過ごすことから非常に深い絆が形成されますが、相手のちょっとした裏切りに深く傷ついたり、度を越した競争心も芽生えやすく、逆に問題を複雑化する場合があるようですね。
2004年の8月28日の告別式で、解散以来12年ぶりにフミヤの方から「元気か?」と声をかけられ、嬉しかったと喜ぶ高杢。複雑ン心理状態です。
幼馴染二人の確執の根本原因がどちらにあるのかなんて、第三者には絶対にわからないことだと思います。
フミヤと高杢の確執の根本原因は?
子どもの頃・不良時代の力関係
幼少期からの二人の力関係が、大人になって逆転したことにも確執の原因がありそうです。
幼少期からの友人同士は、その当時の力関係が大人になってからも影響を与えることが一般的ですが、高杢とフミヤの場合は、その力関係が完全に逆転してしまいました。
高杢は子どもの頃から身体が大きく不良グループの番長だったそうです。年齢は同じでも小柄なフミヤを弟分のように考えていたかもしれません。
フミヤの人気と成功・メンバー間の所得格差
他のグループにもいえることですが、リードボーカル担当は注目を浴びやすく、メンバーの中で一番人気となる傾向があります。
チェッカーズの場合も、多少小柄とはいえアイドルのようなルックスと抜群の歌唱力で、客観的に見てもフミヤが人気ナンバーワンだったと記憶しています。
高杢も人気がありましたが、アイドルにしては渋りルックスで、大人っぽ過ぎたような気がします。
当然、一番の人気者が、グループの中で発言力を得ることになりますから、子どもの頃の力関係が逆転してもおかしくはありません。
チェッカーズの人気が爆発したのは、リードボーカルのフミヤのお蔭なのかもしれませんが、それをすんなり納得できるのは、相当人間ができていなければ難しいと思われます。
けれども、1曲目の「ギザギザハートの子守唄」から11曲目の「Song for U.S.A.」までのすべての作曲と編曲を担当した芹澤廣明氏は、小柄なフミヤをメインボーカルに置くとバンド全体の見栄えが弱くなることから、高杢と鶴久と3人でマイクを並ばせることを提案したとされています。
また、オリジナルの曲が中心になったことで、作詞・作曲をするメンバーとしないメンバーの所得格差が開き、そこにフミヤが解散を希望したことで、高杢が将来に経済的な不安を感じたことは間違いないでしょう。
芹澤廣明氏とフミヤの確執が高杢に影響
女性自身などの報道によると、フミヤは恩師である芹澤氏に「芹澤さんの歌は、もう歌いたくない」と告げ、芹澤氏も「ぼくにしたら、仕事を頼まれただけでそんなことを言われる筋合いはない」と憤慨していたそうです。
ただし、週刊女性プライムの2021年4月21日の記事によると、2020年の9月にフミヤの方から芹澤氏のもとに連絡が入り、一緒に食事をして和解をしたそうです。
そして今では、解散後30年近く封印してきた「ギザギザハートの子守唄」などの芹澤氏の楽曲を公の場で披露するようになっているそうです。
鶴久とフミヤの確執は?
フミヤは鶴久の楽曲も長く封印していたようですが、最近では、披露する機会が増えているようです。
2022年12月4日放送の『いまだにファンです!』(テレビ朝日系)に出演した鶴久は、「ずっと、フミヤさんがメインを張っているじゃないですか。だから、どこかで『休憩したい』という思いはあったと思います。ご結婚もされたし。(メンバー間の不仲で楽屋が殺伐になったことは)ない、まったく。だから、フミヤさんと高杢(禎彦)君が仲が悪いから解散したっていうのはまったくないです」と語りました。(参照元:日刊サイゾー)
ですが、ネットを検索していると、ファンが、「当時のリハーサルやライブの打ち合わせのドキュメンタリー映像を見ていると、鶴久と高杢が浮いているのは一目瞭然だった」と言っています。
チェッカーズ、再結成の可能性はあまりない
2004年にドラム担当のクロベエ(徳永善也)さんが舌がんで亡くなったことで、オリジナルメンバーでの再結成の可能性は0になりました。
現時点で、クロベエさん以外のメンバーによるチェッカーズの再結成の可能性も低いとされています。
フミヤ自身も2022年7月4日のスポニチアネックスの記事で「再結成はない」と明言しています。(参照元:スポニチアネックス)
リーダーだった武内亨もチェッカーズが大好きだったからこそ、再結成は考えていないと断言しています。
チェが好きなんだな、うれしいぜ!オレもチェ大好きだぜ。だからこそ再結成は考えてない。愛の形はそれぞれ、だろ?RT @InfiniteVigor: @toru_master2 チェッカーズ再結成望む。リーダー頼むぜ!
— 武内享 (@toru_master2) January 13, 2014
当時のファンたちも「あのときの7人のチェッカーズが好きだった。再結成は望んでいない」「7人揃ってこそチェッカーズだ」との意見が多いようです。
高杢はフミヤが好き!幼なじみゆえの確執
この記事では、「チェッカーズ 確執」について多角的に解説しました。解散の真相、メンバー間の確執、その影響、そして報道の信憑性など、多くの疑問に答えを出しました。
特に、フミヤと高杢の関係性や、再結成の可能性については多くの人が気になる点でしょう。
ただし、一方的な報道や噂に流されず、事実をしっかりと把握することが重要です。
この記事を通じて、あなたが「チェッカーズ 確執」についてより深く理解できたなら幸いです。何か一つでも新しい知識や視点を得られたなら、この記事の目的は達成されたと言えるでしょう。
最後に、確執の有無に関わらず、チェッカーズが日本の音楽界に与えた影響は計り知れません。その業績を称えつつ、今後の各メンバーの活動にも注目していきましょう。